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三浦豪太の遠征日記
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1月2日、3日

1月2日 日本出発 (移動日)

14:00 羽田搭乗 日本出発 (同日)
18:40 パリ到着 トランジット  機中泊

父のクラーク高校の生徒たちも見送りにきてくれた

1月3日 現地時間 (日本時間 マイナス12時間)

9:45 ブエノス・アイレス到着
11:50 ブエノス・アイレス出発
13:45 メンドーサ空港到着
14:00 メンドーサ空港ゲートにてカリコブラ、ジェニ、金子さんに会う
14:50 Diplomatic Hotel 到着
18:00 夕食
20:00 ホテル戻る

メンドーサ(アルゼンチン)までのフライトはとにかく長かった
日本を午後1時半過ぎに出発して日にちをまたいで日本時間の夜中一時半に到着したので36時間かけてここまで来たことになる。メンドーサの時差は日本とちょうど12時間違うから時間を計算しやすい。これほど長くフライトに乗っていただけあってこっちはまるで季節が違う。1月は南半球では初夏で、ほんの数日前まで北海道でスキーをしていたとは思えないような暑さだ。
ここまで無事来れたということは、概ね順調だといえるが、 パリのラウンジでは旅行客の荷物置き忘れによる爆弾騒動があったり、ブエノス・アイレスの空港では接続時間が短いためターミナル間を駆け足で進んだりと、忙しかった 。
メンドーサではメインガイドのカリコブラさんとジェニさん、そして羽田空港で見送ってくれたはずの金子さんがアメリカ経由ですでに僕たちより先に到着していて出迎えてくれた。カリコブラさんはスイス人、今回の遠征の現地手配をしてくれている。ジェニさんはカリコブラさんの元で働いているガイド、パタゴニア出身で20年以上もアコンカグア登山の仕事をしているという。
とにもかくにも疲れたので一旦ホテルにチェックインして一休み。その後夕食に出かけた 。夕食の場所はLA Lucia、お父さんのリクエストでお肉が食べられるところ
さすが肉料理には定評があるメンドーサ、赤みの肉ながら熟成具合と焼き具合が絶妙で塩味だけで十分たのしめた。

メンドーサは初夏! 到着早々、ステーキとアルゼンチンワインを楽しむ。

1月4日

メンドーサ→ウスパジャータ(1950m

6:00 起床 荷造り
7:30 朝食
10:00 ナショナルパークにて入山手続き
12:30 昼食
15:00 昼食終わる ウスパジャータに向けて出発
16:50 ウスパジャータ到着
21:00 夕食

朝から荷造りだ。今回はメンドーサから北西にあるウスパジャータに二泊して、その後高度順化を行うラスクエバで三泊する。ラスクエバから移動して、アコンカグアのベースキャンプとなるプラサ・アルヘンティーナまで人と酸素と最低限の荷物はヘリコプターで、それ以外はミュール(ラバ)にのせて運ぶ。ヘリコプターに搭載できる重量に制限があるため、装備をなるべくコンパクトにして、スキーケースはメンドーサにおいていき、スキー、ストックや通信アンテナなどをテントマットに包み軽くする。そんな作業を朝から行った。
朝食後、国立公園に向かいアコンカグアの登山申請を行った。登山許可、撮影許可、ポーランド氷河を超えるための特別許可をとるため書類にサインをする。これで晴れて公式に登山活動ができる。
本日の予定地であるウスパジャータはメンドーサから車で2時間。途中昼食を摂る。
ウスパジャータはメンドーサの北西にあるが地図をみると道路は一旦南西に向かい、V字カーブを描き北西に行く形になっている。不思議に思ったが車に乗って初めてその理由がわかった。
車がこのようにメンドーサからV字に向かうのはアンデス山脈の間を抜けていくからだ。
グランドキャニオンのような侵食によってできた景色とその奥に広がる高峰に雪がついた山々が広がり、それにヨーロッパアルプスが混ざったような見所満載の景色だ。
ウスパジャータはその中でも山脈に挟まれた盆地であった。水と緑が豊かな場所で、まるで砂漠の中のオアシスだ。実際このあたりはリゾート地らしく今回泊まるウスパジャータグランドホテルにはグランドやプールがあり、子供連れの家族も多く滞在していた。標高は2000近く、ここでの滞在日数を当初予定していた1日から2日間に変更した。それは父の旅の疲れをとるためだ。日本を12日に出発し今日が1月4日。暦の上では二日間であるが時差で半日得しているので実質3日間移動してきたことになる。1日だけの滞在で急激に標高をあげるよりもここで二泊する方がいいだろうというチームドクターの大城先生のアドバイスにより、出発2週間前に急遽ウスパジャータの滞在に日数を増やした。いい判断であった。
ホテルに荷物を運び入れ、今日の予定を話し合った。ガイドのジェンによると、夕食は九時以降でないと食べられないという。アルゼンチンはスペイン式の生活様式で昼食後にシエスタ(昼寝)の時間があり、その後仕事をするため、夕食は夜中になる人が多い。時差ボケだったためみんなはシエスタに問題はなかったが少しでも時差に慣れようと僕はここの周辺を走った。久しぶりに体を動かすと気持ちよかったがすぐに息切れする。ここは通過地点とはいえすでに標高2000m、空気も薄くなっているのだ。
公園のなかにある事務所で登山申請、その後、一路 ウスパジャータへ

1月5日

ウスパジャータ(1950m2日目

7:00 起床
8:00 朝食 荷造り
10:00 ウスパジャータ周辺散歩
13:10 昼食
16:00 Cmbreの取材
17:00 ミュール用の荷物出し
18:00 夕食
20:00 就寝

今日はウスパジャータ2日目。長旅でなかなか体を動かす機会がなかったので今日は近くを散歩することにした。現在いるウスパジャータグランドホテルから町まで二十分ほど歩き、さらに町のメインストリートを抜けると山や丘が広がっていた。町の途中にチベットバーという看板があった。聞くところによるとウスパジャータはハインリッヒ・ハラーとダライ・ラマの交流を描いた「セブンイヤーズインチベット」の映画の撮影場所になったという。言われてみれば荒涼した山や丘が広がるこの景色は確かにチベット高原にどことなく似ている。正面の丘をゆっくりと上がると、遠目ではチベット高原に似ているこの丘も近くで見るとサポテンがあったり丘に上がるルート上に十字架があったり - これがネパールやチベットだとマニ石だ、日本だとお地蔵さんだろう。信仰が違うとそれぞれシンボルが違うが、山にこうした宗教的シンボル置くのは万国共通しているのかもしれない。
途中アルパカに似たワナカにも遭遇した。首が長くてアルパカよりも毛が短く一見すると鹿のようだ。南米にきた実感がわく。お父さんの調子はまあまあだ。心配していた不整脈もあまり出ていない。2時間半ほどゆっくり歩き、先ほど通り過ぎたチベットバーで昼食を食べる。
メニューはたくさんあったが結局お父さんはビーフステーキを食べる。
午後はCumbresという地方のフリーアウトドア紙の取材をお父さんが受ける。スペイン人の記者で英語はあまりうまくないので記者がガイドのジェニにスペイン語で話かけ、それを英語で僕に訳し、それを僕が日本語で訳すという作業になった。なんだか伝言ゲームのようで、途中で違った意味になっていないか心配だ。
今日の夕食はさすがに九時に食べるのは嫌だったので街に繰り出しステーキ屋さんに行く。
僕は昼に食べたステーキとハンバークがまだお腹にのこっていたのでサラダだけ頼んだが他のみんなはビフテキやラムステーキを頼んだ。しかし量が多かったので結局みんなの残りが回ってくる。ここにきてからステーキ率が非常に高い。でも赤みが多いステーキでとても美味しい。

のんびり身体慣らし。

景色はチベット高原に似ているが、十字架が置いてあった。

1月6日

ウスパジャータ(1950m)→ラスクエバス到着(3150m

天気 晴れ、強風、吹雪、雷
6:30 起床 荷造り
8:30 朝食
10:30 ウスパジャータ出発
12:10 ラスクエバス到着
13:00 昼食
14:00 休憩
18:30 夕食
21:00 就寝

今日は標高1950mのウスパジャータから標高3150mのラスクエバスに移動した。
ウスパジャータからここまでは比較的大きな谷を通り抜けて徐々に標高を3150mまで上る。距離は80キロとあったが山道でバスがそれほどスピードを出せないため2時間半かかった。この道、7号線はそのままアンデス山脈を突き抜けチリ国境を超える。そのため山奥の道にしてはトラックや一般乗用車の往来が多い。
途中、僕たちが今回の遠征でキャンプを張る予定のバッカス谷の入り口やアコンカグアのビューポイントを通過した。残念ながら天気が崩れてきてアコンカグアの全容は見えなかったが雰囲気はわかった。
ラスクエバスはもともと大きな駅舎があった。しかし、1990年代に鉄道が廃止されたと同時に駅舎や線路も衰退、駅舎も線路も朽ちている。しかしその名残で今でもこの周辺にはいくつかのレストランや宿泊施設がある。今回滞在する場所もその一つでコテージ丸ごと僕たちの隊で借り切っている。これまでのホテルと違いベッドはシングルだったり二段ベッドだったりと部屋はこじんまりしているがその分リビングに暖炉や机がありリラックスできるスペースがある。
ここはすでに標高3150m、父にとってこの標高は鬼門だ。ちょうどヒマラヤのナムチェバザールと同じぐらい、ヒマラヤでもこの標高で体調を崩すことが多い。体調を見ながら順化しなければいけない。
昼食後、軽く歩こうと話をしていたが天気が急変し、雷、あられ、雪、暴風が吹き荒れた。そのため午後はゆっくりとコテージで過ごす。気温もウスパジャートよりもかなり低くここにきていきなりインナーダウンジャケットを着用することになった。今日から数日は天気は不安定らしく、午前中は比較的晴れているが午後は崩れやすいとジェニが言っていた。
明日は倉岡さん、平出君、中島君と合流、それから車で標高4200mのところに行き順化をする予定。これから3日間はここで過ごすことになる。

1月8日

ラスクエバス(3150m)→クリスト レデントールの峠(3850m)→ラスクエバス

天気 晴れ 強風
6:30 起床
9:00 朝食
11:00 高度順化 クリスト レデントールの峠
13:30 昼食
18:30 夕食
20:45 スッキリ生中継
21:30 就寝

今朝の朝食は9時と比較的遅めであったが、昨日のミーティングで変更したプランを まとめるのに時間がかかる。今回、プラザ・アルヘンティーナベースからアメギノ峠 までヘリコプターを使うことに対し、あらゆる要素を考えた。このプランの提案は地元ガイド、カーリーコブラとジャーニーからで、もし実現したらきっと新たなアコンカグア登山方法となる。しかし、このプランを実行するにしても、いきなりその高度(5300m)にいけるだけの、十分な高度順化と体力がなければいけない。引き続き順化行動はしっかりと続ける。今日の高度順化は昨日と同じく、クリストレデントールの峠3850mまで車で行き、その後、ゆっくりとラスクエバスまで道路を下山する。 クリストレデントールの峠は物凄い強風だった。砂埃もひどい。 クリストレデントールの峠からはアコンカグアの先っぽが少し見える。その先っぽに は白い雲が渦を巻いていた。これが有名なモンテビアンコだ。スペイン語で白い嵐を 意味するこの気象条件は多くの登山家たちを拒絶してきた。 山の中腹でカーリーコブラのトラックが迎えにきた。父、大城先生、貫田さんは車 内、僕と倉岡さんはトラックの荷台に乗った。立ちながらグネグネ道を降りる時の体 重移動はスキー見たいで楽しい。日本ではこんな事出来ないだろう。 お昼は珍しく、豆スープ。これまで肉ばかりだったのでかえって新鮮である。デザートはフラン、日本でいう手作りプリンで絶品だ。明日はベースキャンプへの移動予定 なのでこのプリンとはしばらくお別れだ、残念。夜はスッキリの生中継があった。

1月9日

ラスクエバス(3150m

午前 晴れ、強風/午後 吹雪
5:00 起床
6:00 ヘリコプター スタンバイ
9:00 朝食
10:00 ラスクエバス 町内観光
14:00 昼食
16:30 スッキリ電話収録
18:00 本日のフライト中止決定
20:00 夕食
22:00 就寝

今日は朝からBC(アコンカグア・ベースキャンプ)行きのヘリコプターフライトのスタンバイだった。しかし、朝から風が強くヘリコプターが飛ばない。待機状態が一日続いた。 この状況は昨日から天気予報でわかっていた。強風になるとヘリコプターに乗せる重量を通常よりも減らさなければいけなくなるので、全員と荷物を乗せるにはフライト数を増やさなければいけない。一応4フライトを予定、人と荷物を振り分けたフライトに乗る順番は高度順化が必要な順番に決める。父は登攀に補助酸素を使うので、高度順化活動は他よりしなくて大丈夫。同じくベースキャンプより上部に登らない貫田さん、金子さんもすぐに行かなければいけないというわけではない。 必然的に登頂を目指して事前の高度順化が必要な平出さん、中島くん、大城先生、僕 と倉岡さんが先にのる予定だった。そのため万が一、先発フライトが飛び後発フライ トが飛ばなかった場合でも対応できるように荷物や通信体制を整える。 午前中の待機が決まり、朝食をいつものレストランで食べる。スタンバイは夕方まで だったので、時間ができたからラスクエバスの街を散策した。ここは昔アルゼンチンとチリを結ぶ鉄道の駅があった。しかし1993年にこの路線が廃線となり駅舎も廃墟と化していた。 それでも時間は十分余った、本読んだり昼寝したりとゆったりとした時間を過ごした が結局、フライト中止が決まったのが夕方の18:00だった。 こうした遠征ではありがちな展開、明日は飛びそうだが柔軟に対応したい。

1月10日

ラスクエバス(3150m)→プラサ・アルヘンティーナ(4200m)

天気 午前晴れ、夕方雪
5:30 起床
6:15 ラスクエバス出発
6:50 オルコネスよりヘリコプター出発
7:00 プラサ・アルヘンティーナ到着
7:20 雄一郎 プラサ・アルヘンティーナ到着
8:30 プラサ・アルヘンティーナにて朝食
11:00 テント設営
13:30 昼食
15:00 ミーティング
18:00 検診
19:30 夕食
20:00 食事計画、詰め
22:00 就寝

今朝は朝から無風快晴、ベースキャンプに行く期待大。
朝起きてからすぐにヘリコプターパッドがあるオルコネスに向かう。オルコネスはヘリコプターパッドでありながらアコンカグアのルートの入り口でもある。ちょっと丘を上がればアコンカグアが望める。
到着するとヘリコプターのローターはブンブン回り、先発の平出君とケンロウ君を乗せ飛び立つ。ヘリコプターはすぐに戻ってきて今度は貫田さん、大城先生、僕を乗せベースに飛ぶ。
オルコネスの谷を抜け正面にアコンカグアを視界に捉えながら一気に飛翔。途中、コンフルエンシアのキャンプが眼下にあった、ここは徒歩や馬のキャラバンでベースへ向かうときの、オルコネスの谷からプラサ・ミューラスに行くため中継キャンプだ。そこから一気に機体は上昇、5000mの峠を越えると隣のバッカス谷に入り、僕たちのベースとなる<プラサ・アルヘンティーナ>に到着した。あっという間だ。
ヘリコプターは僕たちを下ろすとすぐに父達を迎えに行く。20分後、お父さん、金子さん倉岡さんを乗せたヘリも無事に到着した。
キャンプはまだ日が当たらない谷の影にあり冷え込んでいた。15個程の大きなダイニングテントと登山者用のテントが張ってある。ここがプラサ・アルヘンティーナのベースだ。モレーン(ガレバ)が終わったところに位置して、目の前にアコンカグアの東陵が見える。そこからわずかにポーランド氷河とピエドロ・バンデーラの岩か望める。右にはアメギノ(峠)が見える。これまでグーグルアースや地図で調べた光景だが、実際に観ると感慨深い。ここからアコンカグアの頂きを目指すのだ。
ついてすぐに僕達が使うダイニングテントに案内してくれた。
大きなドーム型のテントで8人テーブルが真ん中にあり、サービング用のフルーツやシリアルを乗せたテーブルも隅に置かれている。僕たちのミュール(馬)に乗せて運んだ別送便も到着していた。テントは鉄のフレームで外張りがあり、中張もある。ストーブも完備、入り口には顔を洗えるシンクもあった。床はウッドのフローリングがしてある。かなり快適なダイニングテントだ
みんながダイニングを囲むとすぐに朝食が出てきた。こんな極地でフルーツは食べ放題、コーヒーや紅茶、シリアルがあり、ブルーチーズを乗せたスクランブルエッグは絶品だった。これまで経験してきたベースキャンプより格段に過ごしやすい。しかし、ここはすでに標高4200m、食べすぎ、動きすぎは注意だ。倉岡さんから今日はあまり動かないようにと指示が出る。
朝食後、荷物整理とテント設営を行う。ちょっとした動きも息が切れる。
荷物整理をしていると隣の隊からお父さんと一緒に写真撮りたいと次々と人がきた。どうやらお父さんの噂はすでに広まっていたらしい。その中に面白い人がいた、父に見せたい写真があると言ってスマホに写っていたのがデナリ(マッキンレー)の僕の写真。昨年僕がデナリに登ったときにすれ違った登山家だった。思わぬ再会をした。
そうこうしているうちに昼食の時間。朝食はなんとステーキ!絶妙な味加減だ。
昼食後、一番気になっていた今後の動きをガイドと話しあう。ここからはジャニーを含め現地4人のガイドが合流した。登山計画は昨日のヘリコプター待機により一日遅れている。今後の高度順化とアタックに向けて大枠を話し合う。結果、登頂日は120日から121日になる。高度順化プランは変わらず3グループに分かれるが倉岡、平出、ケンロウ班は明日出発、大城先生と僕はガイドと共に明後日c1に向けて上がる。父はベース付近を中心に高度順化する = という大枠が決まりそれぞれ午後を過ごす。
夕方、アコンカグア駐在のドクターに父の健康チェックが入る。問診と血圧、呼吸器を調べる。このチェックを通らないとアコンカグアに登れない
心配していた血圧だが、ここ数日安定して低くなっていた、見事合格である。さて、明日から倉岡チームは順化にあがる、夕食の後はアタックの食事計画を立て準備をして寝る。

1月11日

プラサ・アルヘンティーナ(4200m)

天気 晴れ
6:00 起床
8:00 朝食
10:30 倉岡待機出発
11:00 検診
11:45 散歩
13:00 昼食
15:00 高度順化ミーティング
18:00 定時更新
19:00 夕食
21:00 就寝

今日は朝から倉岡隊は一足さきに高度順化に出発した。明日は大城先生と僕、父はベースキャンプに残りこのあたりを中心に高度順化を行う。それぞれバラバラのスケジュールとなるので、その前にミウラ・アコンカグア隊のメインフラッグと記念撮影した。
11:00から検診があった。この検診はアコンカグアに登る人は全て受診が義務付けられている。ここプラサ・アルヘンティーナのベースでは年間約千人、ノーマル・ルート側のプラサ・デ・ムーラスのベースでは4千人が検査を受けて登る。結果が悪いと登山許可がおりない。父さんは昨日、血圧が高くもう一度再確認をされたが、今日は血圧が下がり見事パス!
反対に僕の血圧が高くて、もう一度再検査するように言われた。高度順化の後頑張ろう、少し焦る。その後、近くを高度順化のため散歩してから昼食。午後は明日から順化のためのミーティング、フラッグアップ、スキーの調整をした。

1月13日

高度順化2日目 C1(4900m)→5600m→C1→BC(4200m)

6:00 起床 
7:00 朝食
8:15 C1出発
9:50 アメギノ峠
11:00 5600mリーチ 下山開始
12:15 C1着
13:47 C1から下山開始
15:30 ベース着
19:00 夕食
20:00 ミーティング

昨日、ベースキャンプからC1に登り、高度順化2日目、今日はアメギノ峠を越えてキャンプ2まで行く予定だ。しかし、途中、倉岡、平出、中島チームとアメギノ峠で 会った時、倉岡さんから気になる話を聞く。それは登攀予定しているポーランド氷河 とそこでのスキー滑走だが、ポーランド氷河の状態があまりにも悪く、緊急ミーティングが必要だと言う。
本来なら、C2タッチをして、今日もC1に泊まる予定だったが、チーム全体の今後の方針を見直す必要があるので、一旦5600m地点まで登ってから、今日中にベースキャンプまで下ることにした。
天気も下り坂、明日は高所で猛吹雪の予報をウェザーニュースさんから聞いていて、実際C1を撤収するとき、風が急激に強まり昨日までダイニングテントとして使っていたテントが風に潰された。
15:30ベースキャンプに戻る。流石に標高差1400mを一気に降りると空気が濃く感じる。同時に急いで行動したので疲れも同じくある。すぐにお父さんと上の状態を相談して、夕食まで小休止。
みんなが集まった夕食後、倉岡さんが一昨日からルート偵察をしていたポーランド氷河の状態を報告した。ポーランド氷河はブルーアイスの箇所と、この数日の間に降り積もった雪がペニテンテスと呼ばれる氷の突起の間に溜まり、膝まで埋まる状態であ りながら、その下にある氷の部分はとても硬いという。そのため積雪のなかに埋まり 足がとられると同時に、足元と周りの硬い氷に挟まり、バランスをちょっと崩すだけで大怪我となる。このような箇所が連続して続くうえ、ブルーアイスはアイゼンが噛まない程硬い。正直、父がこのルートを登るにはリスクが高すぎる・・・という状況なので、ルートをノーマルルートに戻す方が良いと話しをした。
プラサ・アルヘンティーナ側からノーマルルートへ向かうにはアメギノ峠を東へ、平らな斜面をトラバースしてプラサムーラ側のルートに合流するよう、プラサ・コレラのキャンプを目指す。
ロジスティック的にも技術的にもポーランド氷河より楽になるが、問題はぐるりと山を回りこむことになるので、その間のトラバースが長く、現在の父の移動スピードではキャンプ数を本来のポーランド氷河案よりも多く増やす必要がある。登山できる日数も酸素の量も関係していてもう少し計画を煮詰めなければいけない。
夜も遅いのでルート計画は明日に持ち越す。

1月14日

BC(4200m)

7:30 起床
8:00 朝食
10:30 ミーティング
11:30 登山向け食事プラン
13:00 昼食
14:00 登山向け食事プラン
17:00 酸素計算
19:00 夕食

朝食後、ミーティングを行う。
現地のメインガイドであるジャニーとハビエールも加わり、今度のルートとスケジュールを検討した。ポーランド氷河の危険性を認識した上で、スキー滑走重点より、優先順位として安全にアコンカグア登頂を目指す意向を父に確認。スキー滑走は山頂付近からではなく状況を見て滑走可能な場所で行うことを前提とした。
そこで検討されたのが、当初予定していたヘリコプターでアメギノ峠ではなく、ノーマルルートにより近いところまで行くことだ。これにより長いトラバースで必要とさ れる日数も父の体力も2日分温存できる。もしこれが可能となれば登頂成功率が格段に上がりそうだ。
ただ、ヘリコプターが着陸できるか分からないため、ヘリコプターで5750mまで行く のをプランA、アメギノから時間をかけて進むのをプランBとして準備をすることにし た。さらに下山は僕たちがキャンプを張っているプラサ・アルヘンティーナ側の反対 にあるプラサムーラ側の方が距離も短く速やかに下山できると提案があり、その方向 に行くことにする。
その場合、今回このベース(プラサ・アルヘンティーナ)を一度出発すると、こちらにはもう戻ってこない。残りの荷物は留守を任せる貫田さんにオルコネスへ運んでもらうことになる。
午後はこのプランに沿って食事計画を中島ケンロウ君と、そして父が登山時に使用する酸素(ボンベ)計算を大城先生と行った。
食事計画は日本から持ち込んだ食材と現地で調達したものを組み合わせる。嬉しかっ たのは現地の食材、、美味しい本場の生ハムやブルーチーズなどをふんだんに盛り込んでいることだ。重量より、登山中のキャンプ地で食事を楽しむことに重点をおいてある。
また、キャンプ地に到着後、<レセプション>というハムやチーズ、パンとお茶を食べる時間が設定されていて、日本で言う3時のおやつの時間だが、これもかなり内容が充実していた。日本やヨーロッパでは食事はなるべく軽量にと思うのだがこちら南 米では山での食事を楽しむ文化があるようだ=これは三浦隊の風土と一致している。
異文化合同の食事計画には午後いっぱいかかった。

1月15日

BC(4200m)

7:30 起床
8:00 朝食
10:00 BCでフラッグ&スポンサー向け写真撮影
13:00 昼食
14:00 ミーティング
15:00 荷揚げ用荷物作り
16:00 計量
16:30 洗濯
17:00 スッキリ電話取材
17:30 酸素ミーティング
19:00夕食
20:00 定時交信 
21:00 酸素確認

午前はベースキャンプにて写真撮影を行った。その間、近くのヘリパッドからヘリコプターが飛びたつ。聞くところによると、そのヘリコプターは僕たちの遠征で使う、 アメギノ峠の先の着陸場所を偵察にいったそうだ。その後、パイロットのディウロ、 整備士、ガイド、現在ドクター、レンジャーを交えたミーティングが行われた。オペレーションMIURAだ。結論から言うと、ヘリコプターはアメギノ峠よりも先の5580m地点に着陸可能、昨日の打ち合わせにあったその地点から5日で山頂に到着するプランAの可能性が出てきた。そして天気予報では18日出発が望ましいということとなる。徒歩で向かう僕たちはその1日前、17日に出発しアメギノ峠に入り、翌日、その先で父と合流することになる。ということで、明後日の出発だ!
午後は荷物の重量計算を午後行う。

1月20日

プラサ・コレラ(6000m)→ニド・デ・コンドレス(5500m)→ヘリにてメンドーサ(746m)

7:00 起床
8:00 朝食
10:00 大城先生から相談を受ける
10:15 倉岡さんと相談
10:40 お父さんに話す
12:00 ニド・デ・コンドレスに向けて下山
13:00 到着
14:10 ヘリコプター迎え
15:00 テント張り
17:30 夕食
18:00 就寝

早朝4時くらいからテントを揺さぶるほどの強い風、予報通りの強風、もう1日ここプラサ・コレラキャンプ(6000)に停滞する予定だ。僕はみんなと朝食を食べ、トイレを済ませ外を歩いていると大城先生から呼び止められる。大城先生の顔はいつになく深刻だ。先生から、「昨日のお父さん、夜中にトイレに行った時の息遣い聞いた?」と聞かれた。テントは父の状態を代わる代わるモニターできるように、父と僕と大城先生の3人で同じテントを使用している。夜間中も父が睡眠時に使用している酸素(ボンベ)や父の状態を見るためだ。86歳の父にとってこの標高6000mでのテント生活そのものが大変で、身体を少しでも動かすこと、狭いテント入り口から出入りするだけでも大仕事なのである。大城先生のいった「昨日のトイレ」というのは夜間、外に出ずとも用をたせる通称「ピーボドル」(尿瓶)で排尿しているときの話しだ。僕もその息遣いは聞いていて、父は激しく呼吸していた。大城先生は「あの調子ではいつ心肺停止になってもおかしくない」と話し始めた父の心臓を誰よりも知っているのが大城先生だ。

出発2週間前にも、大城先生の勤める札幌大野病院にて精密検査を受けてきた。父の心臓はこれまでの不整脈に加え加齢による複数の衰えがある。特に心肥大や弁膜症、冠動脈の狭窄などはここ数年で状態が進行しており、酸素が少ない高所でそれらの症状を悪化させる血圧には十分注意を払い、これまで薬でコントロールして下げていた。しかし、このような疾患がある中で、もし血圧が高くなると肺動脈の圧力が上がり肺水腫になりやすくなる。さらに肺機能の低下も見られているので、平地にいたときでも苦しそうに激しい息遣いを聞くことは往々にしてあった。それがここ6000mの標高の滞在で、身体を起こすだけでまるでマラソンを全力で走ったような父の息遣いは聞いていて心配していたが、それが心停止の可能性程とは思っていなかった。こちらに着いてから検討し決めたプランは父の体力を温存するため5580mまでヘリコプターで上がり、そこからプラサ・コレラキャンプへ登った。

本来の高度順化は何度か標高の高い所の登り降りを繰り返し酸素の少なさに身体を慣らすものだが、同時に体力も使う。若い人であれば体力を残したまま順化を行えるが父の場合はその活動だけで体力を使い切り登山が終わってしまう可能性があった。そこで考えたのがヘリコプターと補助酸素(酸素吸入)の使用だ。父は標高4200mのベースキャンプでは十分順応しているが6000mの順応はできていない。そのためここでの滞在で酸素吸入をしているが、それでも日常でちょっとした動作をするだけで呼吸が激しくなる。また自発的に酸素を止めてしまう。本人は高度順化を進めるためだと考えているのだろうが、現在の父の状態ではこれは危険きわまりない。

父が自発的に止める以外でも機械の不具合によって酸素流出が止まることもある。現在の山の中での酸素吸入システムは二つある。一つはマスク方式で鼻と口を覆い被せ酸素の流量を調整する方法、もう一つは機械式でチューブを鼻に当て吸引するとセンサーが作動、酸素がその度に鼻に噴出する方法でオンディマンドシステムという。マスクは登山行動中の使用では効率がいいが口と鼻が塞がれてしまう、普段の生活や睡眠時はオンディマンドシステムの方が鼻だけはなく口が開いているので喋ったり食べたりできるので好まれる。昨夜、そのオンディマンドシステムが止まった。父はすぐに僕を起こしたのだが、作動しない原因がわからずすぐにマスク方式に切り替えた。コレラキャンプに来てから2日目の朝ですでに父の状態について対応する場面が色々あった。

大城先生は「これ以上標高を上げて豪太くんと私だけでお父さんを生かしておく自信がない」と話し始めた。確かに父には歩く体力と気力がある、ゆっくりと自分のペースで登り続けることができれば、さらに1日の標高差を現在のプラン通り行うことができたら頂上へ登ることができるだろう。しかし、それにはこれからの5日以上、標高6000m超に滞在しなければならない。1日6時間の行動(登山)であればそれ以外の18時間X5日間=90時間、常に父の状態を昼夜、二人だけで見ていくのはほとんど不可能だ。しばらく大城先生は黙り「私はこの時点でドクターストップをします」と宣言した。

それからが大変だった。まず登攀リーダーである倉岡さんに相談する。現在の父の状況を説明した上で父の下山までのロジスティック的な内容を検討する。父の状況は上部キャンプに行けば行くほど良くなるわけではなく、またレスキューの確率も下がり、その労力は飛躍的に上がると考え、すぐにニド・デ・コンドレス側(以下ニド)に下山するのがいいだろうということになった。ニドは僕たちが来たポーランド氷河側のベースであるプラサ・アルヘンティーナとは反対側にあるプラサ・デ・ムーラへ下りる方のキャンプ地で、ここプラサ・コレラからでも良く見える。こちら側のベースであれば風が安定していてリコプターもすぐに飛ぶことができるという。一番大きな問題はどうやったら父の山頂への気持ちを断たせるかだ。それは副隊長であり、息子である僕の問題だ。しかし、この事実を率直に伝えるしかない。意を決して、大城先生、平出カメラマンと一緒にお父さんのいるテントに入った。

最初に僕から伝えた - 「先ほど大城先生と話したのだけど、この数日のお父さんの様子をみて、僕と大城先生二人ではこれ以上の高度で十分にお父さんの状態を見ることができないため、大城先生がドクターストップをしました」すると父は驚きながらも、「大丈夫、大丈夫、全く問題ない」という。父にとっても突然の宣告、遠征がここで終わるには寝耳に水であろう、もしかしたら何かの冗談と思っているのかもしれない。しかし、僕がここ数日の経緯を父に話し「この標高でお父さんがほとんど自分のことができず昨晩のようにトイレに行くだけで息も絶え絶えになっているのを見るととても心配だ」というと「大丈夫、ともかく今日1日ここで過ごして、明日インディペンデシアまで登ってから考えよう」といった。大城先生は「今の雄一郎先生の状態は、今この標高にいるだけで私と豪太くんで十分看ることができません、ましてやここから標高が上がると低酸素の危険度がさらに増します、環境も二人では十分対応することできなくなります、私としここでドクターストップといたします」とするとさらに「大丈夫、大丈夫、問題ない。ともかくもう1日ここにいてから決めよう」と、なかなか引き下がらない。

父の強い気持ちを断つにはもっと真剣に向かい合わなければいけない。僕は「それではドクターストップがかかった上で僕が登山を進めるわけにはいけません、大城先生も同じです。僕は降ります。例えば僕と大城先生がもう登山を中止をしたら、お父さんはガイド達と一緒に一人で登りに行ってください」といったすると、長い沈黙がある、目をつぶって何かを考えているようだ。五分、十分、二十分と何も誰も話さないまま重い空気が流れるこれだけでは全く埒が上がらない僕は思い切って「お父さんの気持ちは絶対に諦めることはないと思う、プラス思考でおおらかでいつでもどうにかなると思っている、その思いはいつも山の頂上を見ている、だけどお父さんの肉体はそうではないのだよ。お父さんの気持ちだけアコンカグアの頂上に行っても体が死んでしまったら残された僕たちはどうなるの、その体を引きずりながら下ろす僕たちの気持ちはどうなるの?」と自分の気持ちをぶつけるうちになんだか涙が出てきた。

すると父は「うーん」と言い「倉岡さんを呼んできてくれ」といった倉岡さんが来ると父は、「今、ここでの状況を整理すると二つあると思う、一つはこのまま自分が登山を続けるか、もう一つは私が降りて豪太と大城先生だけでもアコンカグアの頂上に登ること」と聞いた。倉岡さんは「このまま雄一郎先生が登り続けても危険度が増す上にレスキューが困難になります、もし現在、先生の様子がよくないのならここから降りるのが一番です」次に大城先生は、「雄一郎先生が降りるのなら、私は職務として一緒に付き添って山から降ります」そして、全員が僕を見た。「僕は、、、、とりあえずニドまで下山しながら考えます」とにごした正直、僕は父が登山を断念したとき、僕が登るという選択技は考えていなかったなにせ、先ほどまで父の気持ちを断つために、僕は登らないと言ったばかりだ。父に山頂を諦めさせてておいて、自分だけ登っていいものか正直判断に迷った。

しかし、ともかく下山をするということが決まり、慌ただしく荷物を整理してテントを畳む。そしてニド側に降り始めた。先頭はジャニー、次に僕、そして父、安全を考慮して転落防止の為ロープをつけ後ろに倉岡さんがつく。ニドへ下りるルートは序盤急斜面でワイヤーでルートが確保されている。足元に気を付けながら下山する。降りながらも、どうしたものかと思いあぐねていた。なにせ、大城先生のドクターストップを告げられてから、僕の気持ちが途切れていた。僕も一緒に降りるものだと、この遠征はこれで終わりなのだと。しかし、お父さんは「豪太はアコンカグア登れ」と、僕に言った。ニドに着く最後の大きな迂回トラバースを進むときになって「もし登れるなら・・・」という思いが芽生えたそして倉岡さんに「ニドからアコンカグアに登るとしたら今晩中にコレラキャンプに戻るのがいいですか?」と聞くと、「そんなことはない、明日の早朝にニドを出発すればその日の昼過ぎには降りてこられる」と言った。なんだか胸が高鳴る。それからが慌ただしかった。本日は強風予報が出ていたので、てっきり夕方まで十分時間があると思っていて、あわよくばニドの近くまでスキーを上から降ろして、少なくとも父と一緒にスキーが出来るのではないかと思っていた。

しかし、ニドのヘリポートに着くやいなや、すぐにヘリコプターが飛んできた。一便目はどうやらレスキュー要請が入っていたようで、一旦、オルコネスにヘリコプターが行くとすぐに父と大城先生を乗せるために戻ってきた。へりを待つ僅かな時間に父と大城先生はブーツのアウターを脱ぎポートのすぐ下で待機。そして僕は30mほど離れた安全地帯へと引き離されてしまう。「またね!」といったが30mからの距離ではヘリコプターの音にかき消されただろう、しかし僕は思い切って「明日アコンカグア登りに行ってくるから」と大声で叫ぶと、お父さんは大きく僕の方に手を振ってくれた。「届いたかな?」と思うまもなくあっという間にヘリは飛び去った。

さて、残されたのは倉岡さん、平出くん、ケンロウくん、僕と4名の現地ガイド達早速テントを張り明日の準備を始める。プランは明日、夜中12時起床、午前1時半出発とした。標高差は約1500m、今日降りてきたプラサコレラ、インディペンデシア、ラ・クエバ、そして山頂と本来なら3日かかる日程を一気に一日で登ろうというのだ。それでも明日登ることができれば明日でこの遠征は終わる、本当にそんなことが可能なのかな?と半信半疑で倉岡さんのプランに乗ることにした。幸い、父の分の酸素(ボンベ)が残っている。登山中は基本的に使わないものの、夜の睡眠では酸素を吸引して、慌ただしかった予定変更で消耗した体力を回復することにした。夕食はここまでとっておいたキムチ鍋をみんなで食べ就寝する。

ここはアコンカグアの西側、夜遅くまで西日がテントに当たり9時頃まで明るく暑い。それにましても、この急な展開に戸惑う。父が下山してその思いを僕が山頂へとどけなければいけない。引導を父に渡しながらも、その父からバトンを手渡された。そして、まだ僕自身、父を下山させる判断が正しかったどうか分からない。確かに父は歩くことができる、気力も十分あるし体力も残っている、もしテント生活面のサポートだけしっかりしていたら、登れたのではないか・・・いやそれでもドクターストップがかかったのだから遠征を進めようがない…でも、もし僕が父の味方となって判断したら登ることができたのだろうか?アコンカグア山頂への父の強い想いが手に取るように感じられるだけに、辛くなる。普通酸素を吸ったら気持ちよくなり眠れるのだが、色々な思いがよぎって、結局一睡もできず出発時刻を迎えてしまった。

メディカルチェックを受ける下山へニド・デ・コンドレス到着

1月21日

豪太:ニド・デ・コンドレス(5500m)→山頂(6961m)→ニド・デ・コンドレス

天気:晴れ 強風
0:00 起床
1:30 ニド・デ・コンドレス(5500㍍)出発
3:20 ベルリン小屋
3:44 プラサ・コレラ(6000㍍)
6:30 インディペンデンシア(6380㍍)
8:50 ラ・クエバ(6660㍍)
11:12 山頂(6961㍍)
14:05 ニド・デ・コンドレアス着
16:00 テント移動
18:00 夕食
18:50 就寝

昨夜はほとんど寝れなかった。急なドクターストップによる父の下山とその判断に対する自分の責任、バトンを渡され山頂を目指す役割、ニドから一気に山頂へ行くという急激な展開、全てが急すぎて頭が混乱している状態で、暗闇のなか出発準備を始める。それでも、身体を動かして準備をしていると気持ちが落ち着いてきた。考えればとてもシンプルだ。自分のペースでともかく山頂を目指せばいいんだ。そしてお父さんのザックとサングラス、帽子をかぶってその気持ちを山頂に届けよう。

ウェアの件で悩んだ。倉岡さんから上下エクスペディションウェアで行くほうがいいと言われたが、どう考えても暑すぎるように思えた。しかしこのことで、倉岡さんに後ほど感謝することになる。先頭はガイドのジャニー、後ろに倉岡さん、その後ろにはエミリアーノ、カッチャ、ハビエールがいて平出くんとケンロウくんは撮影のため前に行ったり後ろに回ったりしている。登るペースは自分で決めていいらしい。僕がジャニーのすぐ後ろにつくとジャニーもそのペースに合わせて前に出る、遅れると少し歩みを遅くしてくれる。寝不足だけど、昨夜酸素吸ったせいか体が軽くジャニーとの距離を詰めていく。ペースよく昨日1時間半かけて降りてきたプラサ・コレラへ登りでも2時間ほどでつく。標高差が500mなので単純に換算すると登高スピード250mということになる。ここが標高6000mと考えるといいスピードだ。体も軽いジョギングしているくらいに感じる。今日はなかなかいける。

正直不安が大きかった。アコンカグア登山は父に標準を合わせていたので、サポートの僕たちも十分な高度順化ができていなかった。たまたま強風の為、6000mで2泊していたが、それ以外は最高5000mのステイを1日と、父に先立ってベースを出発して5300mのアメギノ峠に宿泊しただけだ。それでも前日、一旦酸素を吸引して休んだせいか順化は十分できているように感じる。

インディペンデンシア手前で強烈な風が吹き、思わずよろめく。しかし、インディペンデンシアまで登ると全く風を感じず穏やかである。時刻は6時半、うっすらと周りが明るくなってきた。つかの間の休息、ここでアイゼンを履き、ゴーグルを装着、日が差してきたので、ヘッドランプをしまう。帰りはここからスキーでニド側に滑って降りるつもりなのでスキーと酸素をここに置いていく。本来、僕の高度順化はここまでなのでこれ以上は酸素を使う予定だった。しかし身体の調子はすこぶるいいので無酸素でも十分いけるだろうと思った。でも一抹の不安があったので念の為、倉岡さんに酸素を1本持ってもらうことにした。

インディペンデンシアの稜線を越えると強烈な風が吹く。風に吹き飛ばされないよう前のめりになりながら歩を進める。この風はラ・クエバに続くトラバースの途中にあるピナクルというところまで吹きつけている。以前から聞いていた強烈な風 <白い嵐> - 嫌だという思いよりもその風に出会えたことを光栄に思う。ピナクルに着くと眼下に巨大な山脈の影が見える。影アコンカグアだ。はるか太平洋に伸びんとするそのスケールに圧巻、何もかもが壮大なる景色だ!そこからラ・クエバまで標高差は僅か300mほど。

しかしここにきて今までのペースはもう保てなくなっていた。急に足が重くなる。父から聞いていたが、ここがいやらしいガレ場の始まりである。ガラガラと崩れる岩と雪面のミックス。斜度が増して、一歩登るのに苦労を重ねる。ラ・クエバとは洞窟の意味で、確かに洞窟のようなくぼみがある。これが海抜0mであれば30分ほどで登ってこれそうな距離であったが、喘ぎながらようやくその洞窟に転がり込む。ここは窪みと山影で風から守られているので、ゆっくりと休む。羊羹とクラッカーを食べる。しかし、そのクラッカーも口の中の水分を持っていきそうでその場で吐いてしまった。水分補給をして出発前におしっこをしようとしたが出ない。よほど脱水なのかと思った。ラ・クエバから山頂まで急斜面が続いている。アイゼンを横にしてカニ歩きしながら進む。さらに自分のスピードが落ちている感じがした。

そのなか、平出くん、倉岡さん、ケンロウくんのスーパー・エリートチームは何事もないようにスタスタと登っている。彼らのスピードが悔しくて一生懸命スピードを上げようとするが呼吸した分しか足が上がらない。喘ぐように呼吸、タイミングをみて足を上げる、この繰り返しを延々と続く。やっとアコンカグアの頂上直下、標高差にして100m地点まで登りつく。ここからはなだらかなトラバースをいき、一旦、山頂直下を回りこむようにして山頂を目指す。今までのペースだと30分くらいかな、と思ったところで急に視界が歪んだ。手足もしびれ、動いていないのに胸の動悸が激しい。一瞬意識が飛びそうになるのでストックに寄りかかる。

様子がおかしい、足にも手にも力が入らずその場で一度しゃがみこむ。いったい自分の身になにが起きているのか分からず、怖くなった。でも、以前エベレストの8000m地点で脳浮腫や肺水腫になったときのような頭痛や肺の痛みを伴うものではない。意識もはっきりしているし自分がどこにいるのかもわかっている。ただ激しい目眩と手足のしびれだ。深呼吸をすると少し収まるが、一歩足を進めるとすぐに身体じゅうの力が抜けてしびれる。怖くなり、後ろにいる倉岡さんに「なんだか調子がおかしい」と伝える。すぐにかけつけてくれた。頭がはっきりしている分、パニックになっているのが自分でもわかる。僕はこのままダメになるのではという思いに囚われる。すぐに倉岡さんがザックから酸素ボンベを取り出してセットしてくれた。

ゆっくり吸って吐く、少しずつ手足の感覚が戻る。極度の酸欠状態になったようだが、あまりにも突然におこり、その状態が続いたため訳が分からず、パニックになったのだ。そのとき、アコンカグアの山頂に立つことよりも自分の命が大切に思え、家族の顔が目に浮かぶ。倉岡さんが「大丈夫、あと少しで頂上だ」といって励ますが、僕の気持ちは一度萎えてしまった。しかし、父が断念したのに、今ここで僕が続いて倒れてしまったらどうにもならないだろう、という気持ちで、気持ちを奮い立たせ、恐る恐る足を山頂へ向かって進める。

酸欠の身体に酸素が吸引されると今度は逆に元気になる。毎分2リットルの酸素を吸ったとたんに足が動くようになり、スピードもあがる。ただ次なる不安がよぎる - 酸素の残量だ。僕たちの前に軍隊がいてそのペースがあまりにもゆっくりで、なかなか上に登らせてくれない。残量(時間)を考えると追い越して少しでも早く行きたいと思うが、それを倉岡さんに止められる。それから30分ほど登り、山頂についた!しかし、直前に酸素を使用したということで素直に喜べない自分がいた。確かに素晴らしい絶景だが、自分自身の過信とオーバーペースによって倒れてしまったことが恥ずかしく、すっかり父の思いやここまで支えてくれた人たちへの感謝の気持ちを忘れそうになってしまった。それでも倉岡さん、平出くん、ケンロウくん、ジャニー、エミリアーノ、ハビエール、カチャが、チームメイトのみんなは僕が登れたことに本当に喜んでいる。恥ずかしがっている方がよっぽど恥ずかしい。

そして33年前、当時53歳の父がここまで2日間でベースから登ったという話を思い出した。今回、父と一緒に登れなかったが、こんなにも厳しい山を今の僕以上のペースで登ったという事実に改めてその強さと大きさを感じた。本来なら父と一緒に登り共に立てると思った山頂であるが、この辛さを感じることによって、尚更にその存在を身近に感じ、一緒に登ったのだという気持ちが芽生える。ひととおり撮影を終える。直下で倒れたあとに、山頂まで酸素を吸ったせいか身体の調子は戻ってきた。しかし歩こうとするとまだふらつく。下山も酸素を吸わせてもらい後ろからジャニーにロープで支えてもらうという情けない形となった。インディペンデシアまで到着、酸素を吸ったせいか少し体が楽になった気がする。せめてスキーをここからしようと思い、滑走可能な斜面を再度登り始めるが思うように足がでない。どうやら根本的に体力の限界のようだ。この調子でスキーを滑ると怪我をすると思い、本当に申し訳ないがスキーをまた下までガイドに降ろしてもらうことにする。

どうにかこうにか体を引きずってニドまで下山したが芯から身体は疲れ切っている。倉岡さん、平出くん、ケンロウくんも同じようで、倉岡さんは酸素を吸いながら外で大の字に寝ている。6000mの滞在から急な父の下山、その数時間後のアタック、あまりにも全てが一気で、一つひとつちゃんと消化できずにここまできた。最後は自分の至らなさに情けない思いであった。夕食のとき、そんな話をみんなにしたすると倉岡さんは、「やっぱりペースが早いと思ったよ、だいたいそういうのはあの辺りで倒れるのだよね」といった。僕は「だったら早くいってくださいよ!」といったら倉岡さんが「でもあそこでペースをゆっくりしなさいといったら、何も学ばないじゃないか、あそこで倒れてもそれでも生きて山頂に立って帰ったからこそ学びが大きかったんだ」といわれ妙に納得した。

恥ずかしかったけど、情けなかったけど、確かに自分の過信や過ちから学ぶにはあそこで倒れる思いをしなければ次に続かないなと思う。
TEAM MIURA アコンカグア 登頂!山頂へ向けて

1月22日

ニド・デ・コンドレス(5500m)→スキー滑降

翌日、酸素を吸引して一晩寝ると思いのほか体が軽い。この下には雪があるという。やっとスキーを履くことができる!荷物をまとめると目の前の雪の上でスキーを履く 斜面は酷い凹凸であった、ちっちゃいペニテンテス(氷の突起)が無数にあり、ガタガタでとてもじゃないけどエレガントな滑りはできなかった。それでもスキーを履くとまた世界が違うように見えた。雪があるところは全部滑るところができる。周りが一変して、これまで挑戦や過酷さといった山のキーワードから軽やかな<遊び>へと気持ちが大きく変わる。僕にとって山はやっぱりスキーなんだなと思った。きっと父にとっても。

ニドのキャンプから標高差500mほど滑ることができた。下部は正直怪我をするのではないかと思うほどペニテンテス(突起)が大きくなった、酸素も薄く喘ぎながらのスキーだったがこの数日、思い悩んでいた事柄が、スキーで滑り降りることで全てが払しょくされ清々しい気持ちになった。そんな気持ちで改めてアコンカグアを見上げる。

地元の言葉で「岩の監視人」という名前。僕はこの岩の監視人に試練を与えられ、恥ずかしい思いも、辛かった思いも見られていた。しかし、それ以上にこの山から数知れないほどのものを教えられた。山頂でちゃんと思えることのできなかった深い感謝の想いがプラサ・デ・ムーラのキャンプ地に着く頃に湧き出てきた。岩の監視人はそれら全て見てくれているようだ。結果、お父さんはドクターストップで下山したが、誰も怪我することなく僕はアコンカグアの山頂に立つことができ、そして最後はスキーまでさせてもらった。

一緒に登った仲間とアコンカグアに本当に感謝したい。そして応援してくださったみなさまありがとうございます。