ミウラ•ベースキャンプ支援隊 今までの活動(8月24日現在)
ミウラBC支援隊プロジェクト立ち上げ。活動内容の確定。必要物資の購入&収集 ⇒ 被災地送り。
(寝袋120個、テントマット100枚、スキーウェア90点、機能性下着170点、サプリメント関連4種各100~200個、カレーレトルト他食料、ニット帽&靴下 190点、保温室内着 100点、防寒着上下 10点)、子供用スポーツ用品(テニス、サッカー、野球、バレーボール用具など)、玩具、布団20セット、エクササイズボール150個
※送付先: クラーク仙台キャンパス経由避難所へ、登山医学会支援隊経由被災地へ(宮古・他)、東京都義援物資受付窓口、仙台・和顔施塾経由被災地へ (気仙沼、高砂地区、女川、牡鹿半島)、登米 RQ市民災害救援センター
※ミウラ・ドルフィンズ 安藤隼人 が登山医学会支援隊同行 現地でのボランティア活動(3月25日~28日)
※三浦豪太 が 現地入り。クラークと和顔施塾関係者とともに現地でのボランティア活動(3月31日~4/5)
※安藤隼人が登山医学会支援隊に同行 現地でのボランティア活動(4月8日〜10日)
※GSA スポーツ・リカバリー・プログラム 大船渡教育委員会へスポーツ用品を届ける (4月16日〜17日)
※ミウラ・ドルフィンズBCにて 支援ボランティア向け中尾先生レッスン (4月29日)
※登米 RQ市民災害救援センター 及び 周辺 被災地の視察・ 豪太 (5月7日 ~ 9日)
※クラーク仙台キャンパス & 避難所 にて被災者運動支援プログラムの実施・ 豪太・中尾先生(5月9日)
※6月4日(土)より FM仙台にて震災復興支援番組「繋ごう明日へ」スタート 毎週土曜日9:00 ~9:30
※Skier Helping Japan のメンバーとともに宮城県・桂島へ炊き出し 豪太 (6月12日~14日)
※大船渡にて子供たちへのスポーツリクリエーション・イベントGSA「スポレク・やっぺし」開催(7月10日)
※
ミウラBC支援隊 被災地支援 富士登山 被災地より35名の親子と共に富士山登頂 (8月9-11日)
※
日本山岳遺産基金 長野・白馬での登山に講師として参加 豪太 (8月19-21日)
今後の活動予定: 引き続き 必要物資の手配&購入 ⇒ 被災地への送付
被災者向けのプログラム検討、 必要とされる支援活動の検討
(株)ゴールドウィンと連携・韓国からの支援物資の被災地受け入れルートを調整中
FM仙台 の 震災被災者向け ウィークリープログラムへの支援
GSAと連動して被災地支援イベント開催

ミウラBC支援隊 被災地支援 富士登山プロジェクト 8月9-11日 by三浦豪太
塩竃浦戸第二小学校中学校 及び牡鹿半島 の 児童&生徒 参加の経緯
僕(豪太)が6月13日、宮城県、松島湾にある桂島に元ミウラ・ドルフィンズのスキーヤー庄司克史やスキー仲間たちと共に炊き出しを行った。桂島は塩竃出身で元五輪モーグルスキーヤーの畑中みゆきが震災以後、様々な支援活動を継続的に行っていた場所。海苔とカキの産業が中心であったが、昨年のチリ沖地震の津波と東北地方大震災の津波で海苔、カキ漁は壊滅状態、島の太平洋側の民家や漁業の機械類は全壊。彼らの交通手段である塩竈マリーナから出る定期フェリーも震災から長い間、運航せず、ライフラインが途絶えた状態が続いた。桂島を含めた松島湾の島々の子供達は野ノ島にある浦戸第二小中学校に通い、彼らの交通手段もフェリーであった。
6月13日にはフェリーも元通りの操業となり学校も再開していたが、地盤沈下によって満潮時には通学路が水浸しになる状態だった。しかしそれでも子供達は笑顔で僕らをむかえてくれた。
僕は炊き出しが終わった後、「この島々の子供達を日本一の富士山に連れて行きたい」と思い、そしてご自身も登山家である校長の志小田先生の思いも一致し、今回のプロジェクトとなった。こうして、浦戸小中学校、小学生4年生以上(10歳以上)の小学生・中学生21名、に加えて畑中みゆきが支援活動を行っている牡鹿半島の小学6年生3人合わせて24人、さらに浦戸小中学校の教員・父兄11名が宮城県から参加が決定した。ミウラドルフィンズから彼らのサポートのため11名、メディア、医療、気象サポートを入れ総勢56名の体制で富士山に挑むことになりました。
8月9日(宮城 → 本栖湖へ移動 & 登山オリエンテーション)
浦戸第二小中学校、牡鹿半島の子供及び教員・保護者の方々は塩竈マリーナに早朝6時45分集合、バスにて富士の山麓へ向け出発。塩竃市長もお見送りにきてくれた。途中のインターで昼食と休憩をとり、午後3時30分、宿泊予定の本栖湖に到着。
到着後は現地で出迎えたスタッフによる装備品の説明、行動食の支給、富士登山の注意点、スケジュールなどのオリエンテーションを行う。その後夕食、10時に就寝。
8月10日 富士5合目 → 9合目
5時30分起床、6時45分朝食、7時30分出発。
8時45分に富士山、水ガ塚駐車場で三浦雄一郎隊長をはじめとした医療チームなど他のサポートメンバーと合流。さらに富士山登頂1000回登頂記録をもつ實川氏がサポートとして合流。
午前10時10分、富士宮5合目より登山を開始。三つの班に分かれる。木村大八郎&庄司克史班、安藤隼人&畑中みゆき班、實川欣伸&清野乙彦班として、三浦雄一郎隊長が先頭、次に三浦豪太が全体の指揮をとり、登りながらそれぞれの班の入れ替えをする様式にする。また先頭グループには看護士の藤木さん、ウェザーニュース気象予報士がアドバイザリーとして常に近くにいてくれた。
同行メディアはそれぞれ写真やインタビューに応じて隊とともに登る。
この日の天気はウェザーニュース飯島氏の予報によると雲がわきやすく、雷雨の可能性があるが、ただこの雲は主に富士山の北側に集まりやすいとのこと。
富士宮口は富士山の南側で、確かに大きな積乱雲が東側の方に高まってきていたが南風に押されて幸運にも雲は富士宮口方面に達せず、天候に恵まれる。
12時30分に元祖7合目に到着、昼食をとった後、9合目を目指す。
天気は最後まで崩れず、おおむね晴れ渡っていた。
児童・生徒は全員、宿泊予定の9合目「万年雪山荘」に到着したが、途中父兄の一人が具合が悪くなり、スタッフが付き添い5合目まで下山する。
9合目は標高3460m、普段海抜0mにいる塩竈出身の子供達にとってかなりの標高となるため、登山のペース配分はしたが、到着後、数名の子ども達が軽い高山病の症状が出て、医療チーム指示で点滴など適切な処置がされる。その後も頭痛、吐き気等、高所特有の症状が現れたがその都度パルスオキシメーターを確認しながら呼吸法で対応。
全員で明日の登頂を祈願し8時に就寝。
8月11日 9合目 → 山頂 → 下山 → 宮城へ
午前1時30分起床
午前2時50分頂上に向けて出発
気温7度、風速10m/s
暗いなか起床、出発の準備。
すぐに装備を身につけ、朝食を摂る。全員同じような装備と靴を持っていて名前の記入もれなどにより若干の混乱があったが、確認後、2時50分に9合目を出発。午前4時55分の日の出(ご来光)を目指して山頂へ向かう。實川氏のアドバイスにより、途中の混雑を避けるために登山ルートではなく、ブルドーザーが物資等を運ぶ為の「ブル道」を使って登り、火口についたら最高地点の剣が峰まで上ることにする。
ウェザーニュースの予報では風速10m前後の風とのこと、確かに出発直後は西風が強く、西斜面となるブル道が曝されないか懸念されたが、じきに弱まり、寒さも少しづつおさまって、登り始めて2時間を過ぎると東の空が明るくなってきた。
見上げるとまもなく頂上。全員でエールをかけながら登り続ける。
そして午前4時50分ついに富士山頂到着!!!
そこからさらに最高地点となる剣が峰へ息をつく間もなく登る。
ご来光は剣が峰の中腹地点で遥かな地平線より美しくみることができた。
子供たちはここまでつらい思いをし、励まし合い、吐いたり、頭痛を我慢しながら登ってきた。大きな達成感を感じた素晴らしいご来光となった。
前日に体調を崩された父兄1名をのぞく、チーム総勢55名が全員登頂!
体力のなかった小さな子供もがんばりました。全員で浅間大社へ御参りをして記念撮影。そして山頂で元Jリーガーの清野乙彦さんがアートフットボールを披露。みんな大喜び。 午前6時30分、下山開始。11時5合目到着。そして温泉で疲れを癒し、一路、塩竃へとバスにて帰路につく。
感想
今回の富士山で最も印象的だったのは、ご来光を見たときの子供たちの笑顔です。オレンジ色に照らされ、それまでつらくて泣いていた顔が穏やかになり、涙が感動に変わった瞬間です。
富士山は年間約40万人もの人々が訪れますが、その3割は登頂できません。そんな過酷な山に、大震災を経験した子供達に挑ませていいのだろうかと最初は考えてしまいました。富士山に登る過程で高山病、寒さ、不安等いろいろな思いも交差するでしょう。多くの支援活動は物資であったり心のケアなどですが、僕たちは敢えて過酷な環境を提供する支援を選びました。東北大震災という巨大な自然災害から立ち上がるために自分から踏みだす勇気が必要だと考えたからです。
今回参加した24名の子供達、みな一度は登山中にどこかで諦めようかと思ったでしょう。しかし、山頂に立ったとき、踏み出した一歩が日本一の高みへと繋がり、そして明けない朝はないということを感じ取ったのではないでしょうか。
これからも僕らに出来る支援をミウラ・ドルフィンズとして続けていきたいと願っています。
詳細は、報告書miuraBC-mt.fuji-report.pdf、掲載記事(2011.8.20nikkei.pdf、20110816093629150.pdf、20110816093309413.pdf)をごらんください
大船渡にて「スポレク やっぺし!」の開催 7月10日 by三浦豪太
各被災地では急ピッチで仮設住宅が作られているが、多くは学校の校庭や公園の中であるため子供達の遊び場が減少している。この状況に杞憂したスポーツと環境を考えるNPO法人団体、グローバルスポーツアライアンス(GSA)副理事長である岡田直子さんは狭いスペースでも楽しめるスポーツレクリエーションを子供達に提供する「スポレクやっぺし」というイベントを岩手県の大船渡で7月10日(日)に開催した。
開催場所は2キロ程内陸に入った盛川の河川敷。そこに所狭しと、テントやスポーツレクリエーションのワークショップが設営された。ボールの的当て、ケンダマ、輪投げ、フリスビー、ミニ卓球、テーブルサッカーなど場所をとらない工夫をされたスポーツで子供達は梅雨が明けたばかりの暑い日差しの中、夢中になって遊んでいた。
メインステージではJリーグ、名古屋グランパスエイトで活躍した清野乙彦さんがサッカーボールを使い、音楽に合わせてその場で多彩なリフティングやトリックを行う「アートフットボール」を披露し、そのコツを見ている子供達に教えた。
またプロマジシャンの菅原英基さんはアウトドアのフィールドで子供達のために不思議なマジックの数々を披露し、その後、誰にでもできるマジックのワークショップを行った。
僕は仲間の基礎スキー・デモンストレーター、竹鼻健さんと河川敷の木々にスラックラインというロープを張り綱渡りを披露、一緒に子供達の手を取って遊んだ。綱渡りは僕がスキー現役時代からやっているトレーニングを兼ねた遊びで、支柱となる木々や電柱等があればどこでもできる。大人も子供も空中歩行さながら冒険心いっぱいに楽しんだ。
イベントが終わった後、サッカーボールで清野さんが行っていたトリックを一生懸命練習している子供達がいた。彼らは地元の少年サッカーチームだが練習場はこの盛川の下流にあり津波で流された。でも「アートフットボールだったらどこでも練習できる」と目を輝かせながらボールを蹴っていた。
今回集まったゲストは子供の心を持ったまま大人になり、その技術を磨いた人たちばかりだ。「どんな環境でも工夫次第で遊びも練習もできる」という伝えたいメッセージは届いたと思う。きっとここから将来のスター選手が生まれることを信じている。
GSAより詳細レポートは
こちら

Skier’s Helping Japan スキー仲間の炊き出し 6月13日 by三浦豪太
宮城県塩竈からフェリーに乗り、松島湾の中にある桂島に仲間のスキーヤー達と共に炊き出しに行ってきた。今回の支援炊き出しを呼びかけたのは、日本スキークロススキー代表で03年初代スキークロス世界王者の瀧澤宏臣、そしてトリノ、バンクーバー五輪アルペン代表である佐々木明選手らで、僕らの仲間であるモーグル・スキーハーフパイプ日本代表の畑中みゆき選手が普段から復興支援の手伝いをしている、彼女の地元・塩竃の桂島に行くことになった。
さらに日本を代表するデモンストレーター、バックカントリースキー、アルペン、基礎、モーグル、ハーフパイプ、スキークロス等、日本を代表する20名程の選手が賛同して集結した。
実際これほどにジャンルが違う日本代表のスキーヤーたちが集まるのは珍しいのだが、全員スキーのメッカである東北地方に元気を出してもらいたいという共通の思いがある。
桂島はカキの養殖と海苔の名産地だが、島の太平洋側は津波による被害が著しく民家や養殖用の筏と海苔を干す機械が破壊され、瓦礫として積み上がっていた。
これほどの被害にどれほどの人的被害があったのか想像に固くなかったが、聞いてみると、普段からの島民達の津波への防災意識が高く、大きな揺れを感じるとすぐに全員高台へ逃げ、桂島では奇跡的に誰も命を落とさなかった。
最初の炊き出しのメニューは佐々木明先週が、彼の地元である北海道、北斗のJAや町長に協力して送ってもらった新鮮な野菜とホタテの「北海カレー」。島民全員に食べてもらおうと200人前作った。
スキーヤーは海外遠征が多く、遠征先では自炊する事が多い。みんな炊事経験が豊富であるため、ジャンルも世代も違うスキーヤー達が料理を通じて阿吽の呼吸で作業が進み、それぞれの枠をこえた絆ができてきた。
200人前のカレーとサラダが出来上がると、桂島の方々が是非一緒に食べてくれないかと誘ってくれた。お昼を食べながら話を聞くと島の漁業としての機能は大打撃を受けたが、資金集めのためのオーナーシップ制度を募り、全国から集まったお金で現在では復興へのめどが立ったという。明るく前向きに語る彼らの海とともに生きる気概を失わない姿に、僕らスキーヤーたちも大いなる元気と勇気をいただいた。


6月4日 FM仙台 震災復興支援番組スタート! 繋ごう明日へ by三浦豪太
6月よりFM仙台にて「繋ごう明日へ」という番組がスタートした。ミウラドルフィンズの元メンバーだった庄司克史さんが所属する仙台の和顔施塾が中心となり、塾長の黒澤としみさんがパーソナリティを務め、被災地の状況を現地で活躍するボランティアを通じて伝え心と身体を元気にする番組だ。FM仙台は宮城県全般をカバーする広域ラジオ局で、リスナーの多くは被災者たち、番組は彼らを繋げ応援する役割を担っている。庄司さんとは20年前から旧知の中であり、彼もプロモーグル、エクストリームスキーヤーだ。現在は企業向けのコミュニケーションセミナーを行っている和顔施塾にいて、震災以後、積極的に復興支援プログラムを僕らとともに続けている。
震災直後の3月末、最初に仙台へ僕が入ったとき、東北地方沿岸に広がる広大な瓦礫の山を前に、お互いにこれからの支援の在り方に悩んだが、とにかく持ってきた物資を運び、孤立した自宅避難者を探し、被災した家の片付けを手伝いながら、これからの活動の方向性を探ってきた。
このような活動を続けていくなかで様々な人たちや団体と繋がるようになってきた。アウトドアやキャンプのエキスパート、お笑いやパフォーマンスに長けている人、そして行政や民間のボランティア団体などと知り合い連携を始め、彼らはこれを「繋ぎ隊」と名付けて活動につなげた ― 支援物資や必要なものを届ける「届け隊」、瓦礫や家を片付ける「片づけ隊」、被災者の心に寄り添う「励まし隊」、そして運動プログラムやカウンセリング、パフォーマンスなどを行う「癒し隊」などそれぞれ得意とする分野で支援活動するフィールドを作る手伝いをしている。
震災から1ヶ月も過ぎると、被災地以外では思いのほか普通の日常に戻っていた。例えばようやく電気が繋がりテレビをつけるとバラエティー番組が流れていたり・・・そんな被災地の人たちに必要なのは、彼らの存在を常に忘れずに活動を続けている人たちの動きであり、その「繋がり」を伝えることだ。その思いでこのラジオ番組をスタートさせたのだ。企画から僅か1ヶ月で番組枠がとれたのもFM仙台が彼らの活動に共感し被災地の現状を伝える事の重要性を地元ならでは感じたからだという。
3ヶ月が過ぎいたるところで仮設住宅が急ピッチで建設され衣・住・食が整えつつあるが震災当初から変わらない支援があるとしたら、被災者に寄り添う気持ちだ。立ち上がろうとしている東北地方に流れる心温まる放送を僕らも応援していく。
被災地 支援活動 5月7日〜9日 報告 三浦豪太
被災者向け支援・運動プログラム実施の為、仙台へ入る。
目的
1)中尾和子先生がクラーク生にボールエクササイズを中心として運動プログラムの指導
2)避難所にて中尾先生とクラーク生によるボールエクササイズの実施
3)FM仙台と提携、これからの支援のあり方の模索
4)現地視察、及び物資支援
中尾和子先生のボールエクササイズ
前回の視察を行った時、仙台近郊の避難所生活では十分な運動を行う事ができず、運動不足が体力低下、心理状態の悪化を招く事が懸念された。
そのため、アンチエイジングリーダー養成機構(ALCO)に支援を要請し、同機構の理事兼、運動プログラム担当であり、厚労省「健康大使」を務めている中尾間和子先生の派遣、運動指導をお願いした。拳大の大きさのボールを使って行うこのエクササイズの利点は小さなスペースでも効率よく運動を行う事ができ運動機能回復が認められ、また、中尾メソッドは体を意識する事により心理状態にも働きかけ、心理ケアも期待できる。
しかし、こうした運動支援は定期的に実施する必要があり、中尾先生が仙台に行く機会が限られる為、現地で既に支援活動を行っているクラーク記念国際高等学校の生徒にボールエクササイズを指導し、今後の支援活動の中に取り入れてもらえるようプログラムを作成する。使用するエクササイズ用具(ボール)はミウラBC支援隊が支援金より購入。また実施にあたり、クラーク仙台キャンパス、ALCO,そして和顔施塾の協力を得た。
クラークからは大橋節子学園長、松木仙台キャンパス長、福祉課程の松村先生、渡辺先生。ALCOからは白澤卓二理事長、後藤孝洋副理事長、竹岡誠治理事、そしてミウラ・ドルフィンズからは三浦豪太が同行する。
クラークでの運動指導
避難所で運動プログラムを実施する前にクラークの仙台キャンパス生徒向けに指導を行う。午前中の2コマの授業時間を使い、約2時間30分の中尾先生のプログラム。
クラークのユニークな点は通信教育の利点を生かし、高等学校に必要な単位を取得するとともに、それ以外の時間を自分が将来行いたい事や、役に立つ知識を資格や経験としてカリキュラムに取り入れる事ができる事だ。
今回、参加したのは、15名の福祉課程の生徒たち。
中尾先生のエクササイズはJSA(ジョイント・スケーティング・アプローチ)といって関節をいかにスムースに動かすかというメソッドである。関節には複数の筋肉がついているが、これらが協力し合って初めて複雑な動きができる。しかし過度な緊張、日常生活の癖等が邪魔してしまい、多く人は理想的な連携ができず、それが慢性的なストレスや緊張によって痛みや疲れとなり、さらに気持ちに反映され意欲の低下つながるといわれる。
避難所ではこのような悪循環が起こりやすいため、体を通じて心と体をケアするのが今回の目的であり、その技術をマスターする事が生徒達には求められる。
中尾先生が最初に行うのはボディマッピングといって体の解剖学的な構造を理解し、筋肉を緩めるリラクセーション、運動を取り入れる複合的なプログラムだ。
もちろん被災地ではこうした複雑な運動を行う事が難しいので、実際にはボールを使った簡単な運動を中心に行うが、クラーク生にはこうした基礎的知識を土台にする事が重要となる。
ボディマッピングの特徴はただ単に解剖学を覚えるだけではなく、体の感覚を通じて自分の体を意識する事で、実際に運動を通じて感じていく。
こうした技術は彼らが福祉を行う現場でも実践的な力となり、さらに自分の体を知る事、そして体力をつける事がこれからの学生生活で必要な事だ。
そのため途中はかなりハードな運動を意図的に取り入れたが、生徒は真剣に授業を受けていた。
避難所 運動指導実施
5月9日の午後、多賀城区域にある岡田小学校に避難している被災者の方に中尾和子先生とクラーク生によるボールエクササイズを実施。
多賀城地区の多くは仙台港を中心とした工業地区で、岡田小学校に避難している多くはその近郊の住宅街で避難に合われた方達だ。
学校から数百メートルも東に行くとすぐに彼らが被災した地区で、現在220名が学校の体育館を避難所として生活している。
僕たちがプログラムを実施した午後2時〜3時の時間は多くの人が。仕事や学校にいっている時間で、また大相撲を見に東京まで行っている方も多く、そのため残りは30名ほどしかいなかったが、残っている方達は身体的に何かしらの悩みを持っている人が多かった。まず体育館の壇上で僕をモデルにどのようにボールを当てるのか、その時のコツなどを説明し、生徒達は高齢の方達をサポートした。中尾先生もすぐに壇から降りて、生徒達と一緒に被災者一人一人を回りながら指導を行った。
腰(仙骨)に当てるエクササイズから始め、それぞれの部位にボールを当てるものだが、運動に不慣れな人たちには特に強いらず、ボールを手に取り会話を行う。
ボールがある事によってコミュニケーションが生まれ、必要であればエクササイズを行うが、もしそうでない場合は、ボールが会話のきっかけとなり、話す事が心理ケアの中で大きな意味を持つ。60分はあっという間で、多くの運動を行う事はできなかったが、ボールエクササイズを通じて確かなコミュニケーションが生まれた。
今後の課題はどれくらいの頻度で避難所にて実施できるかを検討すること、そしてクラーク生らが独立して行えるまでの必要とされるサポートを続ける。この活動がきっかけとなり、クラーク生が JSAの認定資格を取得し、さらに福祉の場が広がればなによりだ。



今後の支援活動について (情報の共有化)
震災から2ヶ月経ち、僕が支援活動を行った一ヶ月前とは多くの面で改善はされてきたが、それでも場所や地域によっては取り残されていたり、支援が行き届いている避難所でも細かい生活必需品の不足していたり、より細分化した支援の必要性を感じた。行政やメディアの目が届くところではしっかりとしたケアが行われているが、多くの町や村には個人宅避難した方達が多く、未だに電気やガスが復旧していない状況がある。
現地でボランティア活動を行っている宮城県北部の登米市に拠点を置く民間ボランティア団体、RQ市民災害救援センターを訪れた。RQは日本各地のアウトドア活動を行っている団体が複数集まったボランティアセンター。現在までに100以上の団体が協力体制にあり、彼らは震災が起きた二日後、3月13日から活動を開始、現在の登米市に3月26日から拠点をおき、行政が行き届かない半島、離島などを中心に情報を集め支援活動を行っている。
僕たちが現地で支援活動を行っている和顔施塾もRQと連携しており、ここにはミウラ・ドルフィンズの元スタッフ、庄司克史と塾長の黒沢としみさんが支援活動を行っていて、僕らが届けた寝袋、テントマット、カセットコンロなどを支援が行き届かない孤立した個人宅へ配布してもらっている。
こうした活動を通じて、今必要なのは情報が正しく伝わる事を感じた。
RQは柔軟性が高く、長期ボランティアも短期ボランティアもその時のニーズに合わせて配置し、それぞれ細かくエリア分けし、支援内容もランクを設けて行っている。
しかし、ゴールデンウィークには200人以上いたボランティアもその後30人となってしまい、これからの支援にはより多くの人々に活動を知ってもらう事が必要とされる。
どこに何が必要か、どのような活動が現在行われているかといった、なかなか離れた場所には伝わらない情報をまとめて発信する支援が今後、重要となる。
そこで新しく考えられたのがラジオを媒体とした支援活動の状況を放送する番組「繋ごう明日へ」(仮称)だ。
これは和顔施の黒沢塾長がFM仙台の週に一度のラジオ番組のパーソナリティーとなり、それぞれの被災地のボランティア活動の現状を伝え、支援している団体や個人の紹介、被災地インタビュー、復興活動の紹介、体や心のケアなどを放送する番組。
この番組に対して、新日本製薬社に資金を提供していただけることとなった。
今回、和顔施の黒沢塾長、庄司克史の案内で、ALCOのメンバ一と共に北上、石巻、南三陸町、志津川、歌津、気仙沼、唐桑半島に入り、視察と物資支援を行った。沢山のボランティアや自衛隊が支援活動しているものの、今でも広がる瓦礫の山を撤去しきれず、それが途方も無い仕事だという事がわかる。家を失い、漁業として深刻な被害を受けた方々の復帰はこれから先も長く続く。深刻な被害状況を確認し、復興には地域によって時間差と格差がある事、そしてそのために必要なのは正確にタイムリーにつながる情報だ。新日本製薬は今後、一年間、ラジオを通じて宮城県一帯に対して情報支援を行う事となりミウラBC支援隊はその仲介役となった。
GSA(グローバル・スポーツ・アライアンス)スポーツ・リカバリー・プログラム 報告
4月16日~17日 大船渡
ミウラBC支援隊の活動の一環として、三浦雄一郎が理事長を務めますGSA(グローバル・スポーツ・アライアンス)のスポーツ・リカバリー・プログラムにて、キッズプログラムご参加されています19名の皆様より、合計224点のスポーツ用品をご提供いただきました!〔サッカーボール、バスケットボール、バレーボール、フットサルボール、軟式野球ボール、グローブ、テニスボール、ウエアー、バット、バトミントンラケット、サッカーシューズ、スニーカー、フットサルシューズ〕。集められた用品は、他の支援物資とともにGSAの岡田副理事長らの手によりトラックで4月17日に大船渡市役所へ届けられ、温かなメッセージと一緒に4月20日より新学期がスタートした地元の小・中学校の子どもたちに教育委員会より配られるとのことです。被災地の子どもたちが1日も早く元気にスポーツを楽しめることを祈っております。
報告レポートは
こちらをご参照ください
子供達からのメッセージ
スポーツ産業新聞に掲載された
関連記事
支援活動へ向けての思い④ (日本経済新聞、三浦豪太探検学校コラムより 4月16日)
先週、宮城県沿岸部に入り、物資支援を仙台に住んでいる知人と仙台近郊、気仙沼、女川町、牡鹿半島などで行ってきた。今回の震災による津波の深刻な被害は東北地方沿岸部全体という巨大なスケールなため未だ全体像がつかめていない。
仙台近郊では流通が回復し物資が行き渡ってきたが、今も続く余震や避難時に負った肉体的、精神的な傷は癒えておらず、心と体の双方に働きかけるプログラムが必要である。
女川町や気仙沼の個人の自宅に避難している多くの人は孤立しがちだ。電気、水道、ガス等のライフラインが未だ回復しておらず、雪が降る東北の寒い夜をしのぐ寝袋はかなり重宝された。
東北人の気質は粘り強いことで有名だ。彼らに何か必要かと聞いても「特にない」という答えが返ってくる。しかし、実際に行ってみるとかなりひどい。牡鹿半島の鮎川の友人を訪ねたときもそんな状況だった。彼は病院勤めで震災以来ほとんど家に帰っていないというので「何か手伝う事がないか」と聞いたところ、最初は遠慮していたが、何度もしつこく聞くと「家のタンスを起こして欲しい」と控えめに答えた。
津波に巻き込まれた家に実際に行って瓦礫の山をくぐると、庭にはどこから来たか分からないコンテナと船があった。
家の中は家財道具、瓦礫、泥でごちゃごちゃになっている。この時、作業にあたった5人と、とりあえず窓枠を外し、大きな家財道具を外に出した。流れ着いた畳を足場に敷き、使い物にならなくなったもの、使えるものを分け、瓦礫を外に出し、泥を掃き出した。こうした作業を5時間も続けると驚くことに家はすっかり様変わり。これまで瓦礫の一部だったが、作業の後は家としての秩序を取り戻した。
家がきれいになる過程で僕の心も変化した。これまであまりの津波の破壊力にただ無力感だけを感じていたが、作業をすることによって初めて、これは物理的に動かせるものだと思えるようになり、自分の力に対して初めて効力というものを感じた。
震災によって知らず知らずのうちに自分の心が無力感で支配されていたことが、この時わかった。友人のためにと行った片付けだが、救われたのは自分の心だったのかもしれない。
支援活動へ向けての思い③ (日本経済新聞、三浦豪太探検学校コラムより 4月9日)
高校生たちの支援
被災者への支援活動を続けているが、刻一刻と変わる被災地の現状を把握するため、先週、僕はクラーク記念国際高等学校(以下クラーク)の緊急指定車両に乗り込み職員と一時避難していた生徒と共に仙台へ向かった。
クラークは三浦雄一郎が校長を務める広域通信制の高校で、通信制でありながら人から人に伝える対面教育を重視し、個々の生徒のニーズに合った教育を実施している。そのため実際に教室で学べるキャンパスで通信制教育の利点を生かした柔軟なカリキュラムを展開している。現在、国内に61カ所、そしてオーストラリアにもキャンパスがあり1万人以上の生徒がいる。
震災の3月11日はちょうど、仙台キャンパスの卒業式の日で、まさに卒業証書を手渡すさなかだった。先生は生徒を避難所に誘導、そこで一晩過ごした。翌日、家族の元へ送り届けたが、電気も不通、電話もなかなかつながらない状況で、その後も生徒228人の安否確認を続けたという。
全国のクラーク生から送られた支援物資は、東京キャンパスを経由して被災した仙台キャンパスに運び込まれた。職員は生徒たちとともに物資を避難所へ届け、炊き出しや、生徒の得意な歌や踊りのパフォーマンスで避難所の空気を明るくしてきた。
クラーク生の多くは小・中学校時代、不登校経験があったというが、今の彼らからは全くそんな感じは受けない。みんな明るく純朴で好奇心に満ちた目をしている。何よりも自らも被災しながら避難所で生活している人たちの役に立ちたいという気持ちがすばらしい。
僕が同行した時、生徒は東京キャンパスから届いたメッセージ付きのお菓子を携えて行った。彼らは避難所の皆さんから盛大な拍手で迎えられ、涙ぐみながらお菓子を受け取る姿があちこちに見られた。
震災から3週間、仙台近郊では流通が回復しつつあり物理的な面では良くなってきた。しかし避難所生活を送る多くの人たちは家や職、そして身近な人を失い、大きな心の傷と将来に不安を持っている人たちばかりだ。被災者の皆さんにはいま親身に寄り添う存在が必要であろう。地元の若い高校生たちの懸命役に立ちたいという素直な心、その真摯な姿に僕は温かい支援のあり方を学んだ。
豪太活動報告 (3月31日〜4月5日)
先週、3月31日から本日4月5日まで仙台をベースに東日本大震災の被災者に向けての支援活動を行ってまいりました。この期間に仙台近郊の高砂地区の避難所2カ所、宮城県北部の気仙沼避難所および自宅避難者、女川町個人避難者達、牡鹿半島鮎川村個人避難者達を訪問・支援活動をしてきました。
これらの避難者らはそれぞれの地域での事情が異なり、実際に必要とされている支援にも違いがありました。仙台近郊の高砂地区の二つの避難所は津波で57%の地域が被害を受けた若林地区や宮城野地区から避難してきた方達で当初はそれぞれ1500人以上の避難民を保護してきたといいます。しかし時間とともに、避難所の変更、帰宅、疎開など、少しずつ人数は減っていき、現在はそのピーク時の30%〜20%が今でも避難生活を行っています。
被災者の多さや流通が滞ってしまったため、震災直後は防寒、食や飲み物、生活必需品などの必要性がありましたが、現在では流通が回復、大きな都市の物量を背景にこれらの地区には豊富な物資が山積みされています。また、宮城県北部の気仙沼にも流通が回復しており、避難所には物資が山積みになっていました。行政で指定、把握されている避難所には現在それほど物資の問題はなく生活面での不便さは比較的緩和されているように見られました。
しかし、彼らは未だに震災による肉体的、精神的なストレス=身近な方達が行方不明または親しい人の損失、避難所の移動、等、精神的にも不安な状況が続いていました。
また、職を失ったり、体を動かす意欲を失っている方も多く、不活性な生活が精神的な不安を助長させてしまうといった悪循環が一部では起きています。こうした避難所では心理的なケアと運動処方の必要性を感じました。
三浦雄一郎が校長を務める、クラーク高等学校、仙台キャンパスでは職員と生徒が震災の早い段階から、高砂地区での被災者達に対して、炊き出しや歌と踊りのパフォーマンスを通じて高校生の真摯な姿が被災者達との心の距離を縮めていました。現在彼らが持っているつながりを通じて被災者達の介入プログラムが今後どのようにできるか検討したいと思います。
その後、宮城県北部の女川地区、牡鹿半島にいってきました。この地区も漁港や海辺の民家などは壊滅的被害を受けたのですが、高台にある個人宅は無事でした。しかし未だ電気、ガス、水道などのライフラインが回復しておらず、これらの自宅避難民には今でも防寒や基本的な生活必需品が届かない状況が続いています。
今回の支援物資を運ぶ活動では元ミウラ・ドルフィンズのスタッフである庄司克史と彼が所属する和顔施塾に協力してもらい、庄司さんの従兄弟が住んでいる女川町の家を訪問しました。避難所では余っている毛布や防寒着も個人宅では不足しており、バンから物資をおろしたとたん、地元の声がけでご近所さんが集まり、この時持ってきた寝袋やテントマットは即時にすべて配られ終えました。東北地方は日中でも気温が5〜10度、夜には雪が降ります。自宅避難をしている方はそんな中暖房器具もなく今も過ごしています。
こうした孤立した箇所の支援には「どこに」「何が」必要とされているかという情報を集め、直接必要とされるものを届けるのが急務です。そしてその情報は地元の繋がりでしか把握できないところが多く、仙台をベースに活動する個人または団体と連携して活動する重要性を感じました。
被災者の避難生活といっても彼らが現在必要とされているものは地域の認知度、流通、復興程度、時期によってかなりの格差があります。こうした多面的な側面を把握した上で、どの側面が最も必要とされているか、もしくは僕たちが最も効果的に支援できる方向性はどこかを検討する事が課題です。
宮城県沿岸部には津波や震災の爪痕は未だ生々しく残っていました。この中で東北地方の方たちは持ち前の粘り強さと団結力を見せながら毎日を生きている姿に多くのものを学びました。
これからも自分達にできる事を考えながら、早急に次の支援の方向性を決めていきたいと思います。


支援活動へ向けての思い② 三浦豪太 (日本経済新聞、三浦豪太探険学校コラムより 4月2日)
続かなければならない支援
東日本大震災から2週間後の先週末、ミウラ・ドルフィンズのスタッフである安藤隼人が登山医学会の医療派遣隊とともに医師チームのアシスタントとして宮城県北東部にある北上町に入った。
鹿屋体育大学で運動生理学の修士をもつ彼は元トライアスロン選手で、低酸素室のチーフトレーナーとして活動しており、健康運動指導士として医学と登山技術に精通している。
北上町で安藤が目にしたのは圧倒的な津波の破壊力に押し流された漁村や町並みであった。
家は土台から根こそぎ引きはがされ、15㍍の高さにある50㍍以上もの長さの橋が崩れ落ちて、さらに1キロほど流されていた。海抜20㍍の高台にあるトンネルも水没した跡があり、津波の高さと威力にただ圧倒されるばかりだったという。
そんな中、彼は医師たちと協力して被災している方々の医療支援を行ったが、避難場には親戚や友人を亡くし、家や漁村としての生活機能をすべて失った絶望感が覆っていた。そして行方不明になっている家族や知人を探したり、遺品を回収するために町を回るのが被災者たちの日課となっていた。そこにはありきたりな励ましの言葉をかける余地は全くなく、安藤もただひたすら黙々と医師のサポートに徹していたという。
僕らは少しでも力になれればとミウラBC(ベースキャンプ)支援隊として支援活動のミッションを掲げ、日々自問自答しながら活動をしている。だが、正直、現場からの報告を聞くと、現在、行っている緊急物資などの物質的な支援の先にある、被災者への精神的なサポートについて何ができるか、それをいま深く考えさせられている。
東北地方の被災者たちが直面した肉体的・精神的ストレス、痛み、喪失感ははるかに僕らの想像力を超えている。それは経験した者でしか分からない。
これまで僕は冒険心や探検心の素晴らしさを書いてきた。そしてそこにある輝きを伝えてきたつもりだ。しかし、改めて「生きる勇気」というものを伝える難しさに直面している。
唯一の救いは安藤から聞いた「それでも子供たちの笑顔がまぶしかった」という現場の報告だ。
僕らはその笑顔を未来に繋ぐ為に、行動の軸を失わず、必要とされる支援とは何かを考え、活動を続けていくつもりだ。
支援活動へ向けての思い① 三浦豪太 (日本経済新聞、三浦豪太探険学校コラムより 3月26日)
MIURA BC 支援隊結成
3月11日、東日本大地震が起きたとき、僕は家族と逗子のマンションにいた。逗子に被害は及ばなかったが、大津波警報による避難勧告が出て高台にある南郷中学校に避難した。先生方は快く僕達を受け入れてくれた。そのうえ水、食糧、毛布、ストーブまで用意してくれた。その夜はとても冷え込み、毛布二枚かけても寒かった。夜中に度々起きて、暖かい飲み物を手にとってストーブで暖をとる。逗子でもこれほど寒いのだから東北地方の寒さは想像を絶するのだろう。
震災直後からテレビに映される悪夢のような光景。被災者が凍える様を傍観しているだけでは無力感に支配されてしまう。何かできることがないのか。ともかく行動することが必要だと「ミウラBC(ベースキャンプ)支援隊」を結成した。
ともかく心配なのは東北地方で今も続く寒さだ。登山医学会に協力してミウラ・ドルフィンズのスタッフが低体温症への対応を登山医学会のホームページにアップした。その後、このページは新聞やテレビに取り上げられ低体温症のマニュアルとして被災地にて実践的に活用されている。そしてアウトドア・メーカーに協力をお願いして120個の寝袋とテントマットを購入、札幌のスキースクールでは被災者用の防寒具を集めた。これらを被災地へ運びいれることが大事だ。三浦雄一郎が校長を務めるクラーク記念国際高等学校はいち早く緊急指定車両を申請し、被災直後から必要とされる物資をピストン輸送している。
ありがたいことに、僕らの呼びかけにこたえ、多くの知人たちも動いてくれた。被災地へ届ける物資購入の義援金、長引く避難生活で栄養が偏らないようにマルチビタミンを提供、最も必要とされるところに支援品が届くように政府関係者と橋渡しなど、心を合わせて協力してもらっている。
こうした取り組みは、もちろん僕らだけではない。支援の輪は日本中に、さらに世界へ広がっている。
現場では危険を顧みず、命がけで原発事故を食い止めようと戦っている作業員がいる。全てを失っても誇りと笑顔を失わず助け合って、新たな一歩をスタートした被災者の皆さんを思うと胸が熱くなる。復興にはこれから何年もかかり、求められる支援は状況により刻一刻と変化していく - 救助、救援、復興へ自分たちに出来ることで動いていこう。
3月26日 三浦豪太
参考記事 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110325-00000545-san-soci
(3月25日産経新聞)

HOME
低酸素トレーニング
ファミリー
リンク






